芝田勝茂の単行本 作品紹介

夜の子どもたち

芝田勝茂・作、小林敏也・画

福音館土曜日文庫版/1985年10月 発売/¥1,575 (税込)/[ISBN]4-8340-0377-9

福音館創作童話版/ 1990年9月 発売/\1,733/ [ISBN]4-8340-1046-5

パロル舎改訂新版/ 1996年7月 発売/¥1,631 (税込)/[ISBN]4-89419-136-9

= あらすじ =
ある日突然、登校拒否におちいった五人の子どもたち。若きカウンセラーの調べによると、彼らにはある共通の恐怖体験が…。昼とは全く別の顔をもち、夜を異常なまでに恐れる大人たち。暗黒の闇につつまれた町を舞台に、若きカウンセラーと子どもたちが、幾重もの謎に立ち向かう。日記を綴るように一日一章づつ読みながら、11日間の冒険を彼らと共に体験できる、ひと夏の夜の物語。
= PostScript =

1985年。もう、「2年おき」というのが定着してしまいそうな発表ぺ−スだったが「ドーム郡小史のつづきを早く!」という熱い読者の声をあっさりと裏切って、現代ファンタジーとでもいうべき作品を書いたのだった。書かずにはいられなかった。というのはふたつのファンタジーを書きながら、「この物語は、いったいわたしのどこから湧いてくるのだろうか?」という疑問にとらわれて、河合隼雄(当時まだブレイクしていなかった)の著作にふれ、ユング心理学へと足を踏み入れて、なんとかこの「心理学」をテーマにした作品を書きたい、心理学を素材にしてしまうような現代ファンタジーを書きたい、と思うに至ったからだった。

さて、この本は、のちにハードカバーとしてリニューアルされる(1990年9月20日)が、やがて絶版となる。それから、パロル舎によって加筆訂正版を再刊。『ドーム郡ものがたり』や『虹へのさすらいの旅』は読んだことがなく(絶版だからね)『夜の子どもたち』で芝田勝茂を読んだ、とおっしゃるのは児童文学関係の方々に多い。

しかし、読んでいただければわかるが、これは正統派の児童文学などではなくて、なんと申しましょうか「キワモノ」に近いといえるかも。たまたま手にとった本がわけのわからない「うさんくささ」に満ちていたらいいな、なんてことを思って書いていたのですよ。なのにたまに、「名作」扱い、というか、勝手にそういう思い込みで読む人がいて(いやほんとにいるんです)「何じゃこりゃ!」みたいな(笑)反応をされたりする。名作扱いという理由のひとつは、『日本児童文学者協会編『児童文学の魅力』いま読む100冊ー日本編』にとりあげられたせいかも。

= 書評 =

現代社会の核心に迫るテーマを追った作品です。…略…ストーリーは、登校拒否児カウンセリングという設定から、国家による陰謀へと壮大に展開していきます。登場人物も若いふたりの心理学者、それぞれ個性的な五人の子どもたちが、生き生きと描き分けられています。特に今日的女性像としてのルミの描き方、とても魅力的です。ファシズム国家への政府の目論見などは、いかにも現実感があり、それと真正面から向き合った点では、児童文学の世界をひろげた作品といえましょう。…略…人間の心をゆがめてしまうほどの巨大な現実の壁に、どう立ち向かっていくのか。ぼくやルミに寄りそって読みすすめてきた緊迫感が、最後にはぐらかされてしまうのが惜しまれる作品です。(日本児童文学・創作月評1986年03月)

前2作とは異なり、日本児童文学は書評で3頁にわたって『夜の子どもたち』について触れた。そして翌年の協会賞候補作に。

最終的には…略…『夜の子どもたち』…の四点にしぼられた。この中で、『夜の子どもたち』は、読者を惹きつけるおもしろさ、ファンタジーとしての魅力は認めつつも、展開に無理が多いという点で…略…見送られた。(日本児童文学1986年07月「協会賞選考経過報告」)

この時の選考委員のなかで、「最終的には僕は『夜の子どもたち』を推した」と言った藤田のぼるは、年間書評でも『夜』をとりあげている。

昨年出た本の中で、僕にとって大変おもしろく、かつ興味深い本が三冊あった。まずその話から始めたい。『夜の子どもたち』(芝田勝茂、福音館書店)『ふりむいた友だち』(高田桂子、理論社)、『昔、そこに森があった』(飯田栄彦、理論社)の三冊である。言えば僕はこの三冊に、紛れもなく八十年代を感じた。(藤田のぼる「児童文学・八十年代への予感」日本児童文学1986年06月)

…この八十年代前半の時点で、核廃棄物を利用したミサイル基地を秘密裡にこの八塚市に作り、心理学の軍事利用を進め、コンピュータにすべての住民情報を入力しているファシズム国家といったものを<夜>の中に設定し、人びとや子どもたちが「石の顔」になるという恐ろしさを描いた作者の感性は、並大抵のものではない。当初はいささかドン・キホーテ的と見えた設定が、現在ではより切実な迫力を帯びている。(『日本児童文学者協会編『児童文学の魅力』いま読む100冊ー日本編』)

奥山恵の「芝田勝茂論」は、この作品の初版と改訂版を詳細に比較し、「少数派」 としての子どもたちを論じる。とてもスリリングな批評である。読みながら、この 論考はいったいどこへたどりつくのだろうと、ほんとうにはらはらした。興味深かったのは、彼女が批評においていいたいことと、わたしが小説のなかでいいたいことはかなり異なるにもかかわらず、わたしの作品は彼女の主張の素材としての役割を見事に果たしていたということだ。もうちょっというと、たとえば作者と読者は、これはいってみれば同じ穴のムジナ、みたいなところがあって、作家であるわたしAと読者であるあなたBは、ともに同じ本の同じ文章に、ほぼ同じ理由で涙している、あるいは共鳴したり反発しあったりもしているだろう。が、批評家である彼女Cは、涙したり、共鳴したり反発することがたとえあったとしても、それはどうでもいいことであって彼女Cに必要なことは、そういう作者と読者の構図を含めて、作品という果実から得られる果汁を、そこで味わおうというのではなく、別の使いみちはないかと探っている(らしい)のだ。たとえばその果汁の「甘み」であるとか「酸っぱさ」に目をつけるのではなく、なんと、「色」を利用しようとする。そして、それでシャツを染めてみたりする。そういう不思議な人種なのだということ。奥山恵はシャツを染めるというよりは、その色でカンバスに自分流の絵を描きたいひとだと思う。でもそれって作家の資質では?ちなみに彼女は歌人でもある。以下にわたしの好きな作品を勝手に引用しちゃいます。

遠きもの ミシシッピーを下りゆくハックルベリーの霧の夜の夢

統べきれぬ身体抱えて水流すキッチンの隅で抱きすくめられ

ゼツボウという言葉世にあるなれど「ラ」をかさねればひとは歌える

(奥山恵処女歌集『ラをかさねれば』(雁書館1998年)