2006年11月29日
★作家の原風景『ライム』長崎夏海(雲母書房・2006年11月刊)

長崎夏海が『夏の鼓動』で、高校受験を前にした少年少女群像をあざやかに描いたのは1994年だから、今から12年前だ。12年たって、作者はふたたび同じ季節へと旅をする。
『ライム』の主人公たちも中学3年生。
「昔の仲間たち」が<熱かった>時期をすぎて、それぞれ個の世界へ帰る、あるいは閉じこもるときに、再び目の前に立ちはだかっているのは、あいも変わらず<家族>という名のしがらみ。けれど、家族へのまなざしが、以前とはちがっている。じぶんたちを置いて出て行った父が、「とてもかっこよかった」ことなども、素直に認めることができる。その変容は、主人公の<ライム>だけではなく、かたくなだった母にもあらわれる。こどもたちの成長だけではなく、大人も含めてだれもが変わっていく。
そんな短い人生の瞬間をえらび、繊細なひだをあまさずに描き出す。
わたしたちの<核>となっているのは、思春期に織りなされたこういった景色。わたしの<核>はこのあたりにある、という<手さぐり>を、作者もひとつひとつたしかめながら書いているのだなあと思う。そのことがじぶん自身の<今>を考えることにつながっている。そしてそれは同時に読み手であるわたしたちに、そのころの景色をどこへやったのかと問いかけてくる。

2006年11月23日
★『たそかれ』朽木祥(福音館書店/2006年11月刊)

朽木祥の処女作『かはたれ』の続編。
前作の美しい世界は、こんども裏切られない。
読んでいる間、わたしたちはある至福の時間が流れていくのを感じる。まるで音楽を聴いているようだ。
最初の作品の主題が、ちらちらと顔を出しながら、新しい主題とそのクライマックスにむけて奏でられる。最初安心してこの世界に身をゆだねることができるのは、やはり前の作品で知ったいくつかのことがいつのまにかわたしたちの心のなかにおいても、<水のしぶき>のように結晶しているからにちがいない。大きくなった<麻>との出会いの瞬間、わたしたちはもしかしたら<八寸>よりもときめいているかもしれない。
だが、安心しきっていられるのは最初の頃だけである。
この続編は困難なテーマをとらえて、後半へと突入する。
それがどんなところか、ぜひ読んでいただきたい。
朽木祥の紡ぎだした、ある<高み>にふれることができてよかった。それは死者をも生者をも、その黒ずんでいる負債から、いっとき解き放ってくれる。

2006年11月08日
★バンモチの家。

その家は、在所の奥にあった。庄屋さんもしていたという、旧家。
土間に立ったとき、ふしぎな気持ちになった。
まるで、クミルがじぶんの森に帰ってきたときのような、そんな気持ち。
この土間を、わたしは知っている。
土間も、客間にあがる上りかまちも、となりの台所も、
何もかも、思っていたとおりの配置なのだ。
40年以上も前の、『バンモチ』の記憶がまざまざとよみがえる。
ここで、3斗の米俵をかつごうとして、ぶざまに失敗したときのこと。
あのときのやりきれなさ。
でも、たぶん、そこにはわたしを見つめるいろんな目があったのだ。
村いちばんの力持ちだった父とか、クラスの少女たちとか。
もちろん、村の神様たちも見ていたにちがいない。
外に出る。そこには縁側があり、庭には古い松の木が。
わたしの脳裏にはもうすでに語らうヒスイとみち夫のすがたが浮かんでいた。

その家が、わたしの原体験のまぎれもない「現場」であったことは、翌日、あらためて
ある方から教えられた。
家のひとたちは金沢に住んでいて、毎週末におじいさんが家の手入れのために
戻っておられる。
「取り壊そうかどうしようか迷っているのです……200年近くも
経っている家なので……撮影に使うなら、使っていいですよ」
家が、わたしたちを待っていてくれた。そんな気がした。
それから、わたしと梨木監督、そしてスタッフ2名は公民館へと向かった。
羽咋市長に会うためである。映画化にむけて、まだ何も決まったわけではなかった。
けれど、わたしは確信していた。流れはそういうふうになっている。
何も心配することはない、と。(11月3日)