2003年7月27日
★『身体』…戦後失ったもの★Ý

★養老孟司さんの『バカの壁』は、独り言を録音してそのまま本にしたようなお手軽な作りだが、中身はいろいろ面白い。そのなかに、「戦後の日本が失ったものは『身体』である」というようなことが書いてあった。まあそれとはすこし違うかもしれないのだけど、たしかに『身体』を表現するさまざまな機会が失われてしまい、『身体』にまつわることがなにかタブーででもあるかのように表現の分野からも消えてしまったような気がする。その結果、「意識」「アタマ」の部分のみが強調され、というかその部分のみでしか自己を表出できなくなってしまった、ということがたしかに「戦後」の一側面ではないかと思う。かんたんにいえば、外で遊ぶのではなく家のなかでひとりでゲームをするようなことです。それがいい悪い、ということではなくて、そのこと自体のなかに、すでにある種『身体性』を拒否するような発想が前面に出てきてしまっているのだなあ、と思う。例をあげればきりがないけれど、運動会で 1等2等をつけないかけっこをするとか(これこそバカの骨頂!)何かをいえばその「言葉=単語」のみをとらえて「差別」だと騒ぎ立てる「差別主義者ども」だとか、……まあ腹がたつからこれ以上いわないがこないだNHKでやってた「プロジェクトX」でいえば、ペットを飼うのではなく、ロボットのペットを愛玩する、というようなこととかね。実際のペットは、さほどききわけがいいわけでもなく、食事も与えなければならないし散歩にも行かねばならない存在ですが、ロボットのペットだと、面倒なことはしなくてよさそうです。まあ、そんなような、わたしたちが『身体』をつかってやらねばならないさまざまなこと、身体がふれあうさまざまな関係から、こじゃれてこぎれいで手が汚れなくて、めんどうなことが少ないものへと志向していったのがこの「戦後」です。それが「文化的」なことだと思ったのです。それはけっして「進化」ではなくて、ただの変化なのですが、ここにも誤解があって、それが「進化」だと考えてしまったのがこれまた「戦後」というものではなかったでしょうか。いつからなのでしょう、「新しいもの」がすべてよいものだという発想が大手をふって歩き出したのは。

2003年7月13日
★『魔法のファンタジー』出版記念シンポジウム★

★神楽坂の出版クラブ会館にて。シンポジウムのパネラーは藤田のぼる、広瀬恒子、浜名奈々。司会は河野孝之、フロアーはファンタジー研究会のメンバー、児童文学者協会の作家・評論家たち数十人。仕事があったので途中からの参加だったが、浜名さんのゲド戦記に対する考察、藤田さんの『異教徒』発言(つまりじぶんはファンタジーが好きではない、という立場)それに対する意見など、いろいろ面白かった。こういう場に気軽に行けるというのが、つまりは東京にいるってことなのよ、と小梅ちゃ@妹あたりにいわれそうだが、3時からはじまって、途中休憩を15分いれて6時に終わっても、なんだか語り尽くした気がしないのは、そもそも『魔法のファンタジー』という評論集そのものが31名という方々の、それぞれ多方向に向いたベクトルの評論をかき集めたものだからである。その「魔法の鍋のごった煮」的な状態から、多少は見えてくるものがあればよかったのだが、それはなかなか難しい、というのが正直なところである。途中何度かわたしの「開いているファンタジー、閉じているファンタジー」についての言及もあり、最後になって河野さんに指名され、ドーム郡、虹、の最初の2作以来封印してきた「ファンタジー」にいま二十年ぶりに取り組んでいるという報告くらいしかできなかった。それがなぜなのかという自分の必然について、昨今の「ファンタジーブーム」〜なぜか、ファンタジーが求められているということ〜の意味を、じぶんでも知りたかったのだけど。
 ★「最近のファンタジーは、『悪』を自分の外のものとして描いている」という浜名さんの言葉が印象的だった。そうであるかぎりは、いつまでたってもファンタジーとは「逃避」の喩でしかないだろう。
 ★『虹へのさすらいの旅』の直し、ようやく半分まできた。おもしろい。でもしんどい。

2003年7月3日
★『水の精霊』第泄煤@幻の民/第部 赤光 横山充男 ポプラ社★

★「この国の歴史には記されることのなかった幻の民をめぐる壮大なファンタジー」と帯にある。けれどことさらファンタジーと呼ぶ必要はないだろう。これはまぎれもなく骨太の現代文学であって、作家が渾身の力をこめて描いた魂の物語だ。主人公の少年が背負っているのは、じつはかれの負債でも過去の傷でもなく、まさしくいま人類が抱えている<現実>であり、いっけん古代からの「血」や「伝統」を受け継いだ<選ばれた民>と、そこから生まれて現代の汚辱にまみれたひとびとの救済を可能にする<救世主の物語>ではないかと思うならそれは誤解である。きこえてくるのは作家の悲鳴であり、警告であり、そして苦痛にほかならない。だがそれは作者固有のものではなく、読者すべてに投げかけられている課題だ。
 ★どの文章も痛々しいほど、この星への想いに満ちている。わたしは第1巻の冒頭から緊張していた。こんな読み方をしたのはひさしぶりだ。そして現代の若者たちが、まるでわたしが高校生のとき、ヘルマン・ヘッセをむさぼるように読んだときのような緊張感でこの作品を読むであろうことも想像できた。生きているということ、この現代において生きている、そしてこれから生きていくということはどういうことなのだろう。そんな問いかけが、行間からたちのぼってくる。……この本は、この本を必要とするひとのところへたしかに届けられるであろう。
 ★また水のおいしさ、食べ物のおいしさ、空気のうまさ、そんな、プリミティヴな快さも全篇にあふれている。生きていること、その豊饒な恵みを、わたしたちはここでまた味わうことができる。
 ★それにしても、四国、とはなにか特別の土地であるようだ。本州の人間にとって「山の民」はすでに手垢にまみれた過去の猟奇的な遺物でしかないように思えるのに、それが横山充男の手によって「セゴシ」という美しい名をもったネイティヴ・ニホンジンとしてみごとに再生している。それも四万十川の清流のなせるわざであろうか。かつてわたしは『ふるさとは、夏』という作品で石川県・能登半島の方言をちりばめたが、四国の方言はそれによく似ていることにも驚いた。語尾などそっくりだ。こんど横山充男に会ったら方言で語りあってみようと思う。通じるだろうか。