| 2003年5月31日 |
★表紙ができました★
★『ドーム郡ものがたり』The Newの表紙校正が送られてきました。……早く報告しろ、という声がきこえてきそうだけど、なんだかしみじみとうれしくて、さっきから見入っています。あ〜。すてきな本です。じぶんでいうのもなんですが、…いえ、著者だからこそいわせてください。この稀有な物語のイメージにふさわしい、すばらしいかたちになりました。この絵を見ているだけで、そうか、『ドーム郡ものがたり』って、こんな物語だったんだ、とあらためて思います。……どんな絵になるんだろう、とあれこれ想像していましたが、わたしのあらゆる想像を裏切った(!)佐竹さん。あなたの挿絵での『ドーム郡ものがたり』は、この物語に新しい光を投げかけたと思います。感謝します。こんな本に仕上げてくださってありがとう。いま、わたしのてもとに、まばゆいばかりの宝石がひとつ。……感無量でこれ以上書けません。
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| 2003年5月27日 |
★バス停の落書き★
★K駅に向かうバス停は歩道橋の陰にあって、昼でもすこし暗い感じだった。ベンチに座ってバスを待つ間、ふと目の前のコンクリートの柱に、なにやらびっしりとマジックで落書きがしてあるのが目にとまった。その数ははんぱではない。数十、どころではないのだ。最初、だれか友人が転校するので、みんなで飲み会でもやったついでにここで盛り上がって書き込んだのかな、と思った。全体にそういう調子なのだ。
「K君、いつまでもわたしのこと忘れないで」
とか
「K、こんど合コンしような」
「くりくり目のKの笑顔忘れない」
「K、おまえ最高だよ」
「これからもおれたちはずっといっしょだからな」
「○○(女の子の名前)はおれにまかせろ」
など、どの落書きも「K」君への思いでいっぱいだ。「エロビデオ持ってきたぞ」というようなのもある。よほどこの「K君」はみんなの人気者だったんだなあ、などと思いながら読んでいると、とつぜん、
「おまえらしいよ、最後まで」
「事故起こすなんて」
という文にぶつかった。はっとしてそのコンクリートの柱の下を見ると、花束が……。「平成○○年○月」という文字もある。そうなのだ、この落書きは、バイク事故で亡くなった少年への、友人たちの「現場」での声だったのだ。すこし背筋をのばして、あらためてそれらの断片を読んだ。どのことばの端々からも、K君とその仲間たちの、いっしゅんの光芒のようなシーンが立ちのぼってくる。そのときバスが来た。
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| 2003年5月23日 |
★松原秀行『竜太と青い薔薇上・下』講談社青い鳥文庫fシリーズ★
★『ドーム郡ものがたり』や『虹へのさすらいの旅』とともに福音館土曜日文庫で人気を博した松原さんのデビュー作。1983年刊。それが、20年後の2003年に、「どうせやるなら、いまの時代にふさわしい新バージョンの「竜太」にしなければ。そう思ったのです」と、作者があとがきで語っているように、装いを新たに復刊された。大きなストーリーこそ変わっていないが、この20年間の作者の「想い」をあちこちの行間からうかがうことができて、読みながら感無量だった。あのころは、ストーリーの新鮮さと、登場人物の描き方の見事さにただただ感嘆しながら読んでいた。今は、読み手であるわたしも多少は成長したのだと思ってうれしかった。
★異世界ファンタジーを描きたいと思った作者は、その「異世界」へどのようにして旅立とうとしたか。作者は、なんとその「異世界」へ、「現代の少年少女」を連れていこうとしたのだ。しかも、ひとりではなく、ふたりも。こんな無謀なことはふつうの作者はしない。というか、だいたい昨今のファンタジーはもっぱら「作家のひとりよがり」で、その「異世界」で酔っていたいわけだから、そもそも現代人をそんなところへつっこんだら物語がぶちこわしになってしまう。たとえ連れて行くとしてもせいぜい自分の分身くらいのものであり、わざわざカップルを連れていったりはしない。それにまあとにかくファンタジーが発生するためにも、主人公にはある種の「欠如」があり、その「欠如」を埋めるための旅になるわけなんだけど、松原さんの主人公たち〜竜太と麻子〜は、とことん健康的だ。つまりかれらは、「自分の内的理由に触発されたり」とか、「失われた自分のなにかを取り戻すために」旅に出るのではなく、たまたま巻き込まれた事件のために、「異世界」にまぎれこみ、そして冒険をするのだ。これが、この作品の魅力である。のちの松原さんのパスワードシリーズにも、この等身大の少年少女がわんさか登場する。かれらはほんとにすぐそこに息づいている。笑っている。その子たちと、「異世界」へ行ってみたかったんだ、作者は。
★だから、理屈ぬきに、とにかくいっしょに旅してみよう。怪物が出てきたら、いっしょに逃げよう!その逃げるときが、なんだかとてつもなく楽しい。それが新しい『竜太と青い薔薇』である。うまくいけば、ただ逃げるだけではなく、すてきな彼女をおんぶして逃げることができるかもしれない。……続編、早く出してください! ★……さて、つぎはいよいよわたしの番、だ。
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| 2003年5月18日 |
★もしかしたら雨オトコ?★
★サマーキャンプやスキーキャンプのディレクターをしていた頃の「おやぶん」には、まあ一種の神がかり的伝説があって、それは何かというと、「天候まで左右できる」ものすごいパワーを持っている、ということでした。最後の日の午後にざあざあ雨が降り出して、夜のキャンプファイアーどうしましょう、とみんな空を見上げて困っているとき、「外でやるよ」と平然というおやぶん。「ええ?こんな雨ですよ?」「だって晴れるから(きっぱり)」もう、このおっさんは何をいってるんだ、とあきれるみんな。ところがほんとに夕方になって雨はすっかりあがり、ぶじに満天の星空の下でファイアーができましたとさ、とかね、たしかにそういうシーンはあることはあったけど、雨にふられたことも多々あったわけでね。ただ、たしかに子どもたちのキャンプでは、「だれかに守られている」と感じた瞬間はありました。守ってもらえなかったときもあるけど(笑)。ほんとに天候を左右できるんなら、そもそも降るな(笑)。……そんなわけでだいたいにおいてわたしは「晴れ」の人間だなあというのがあったわけですが、ここんとこ、いくつかのエポックはけっこう雨もようなんですよ。こないだの花見といい、…そういえば昨年の「コノフの森」の公演も雨もようだったなあ。「雨オトコです」と公言してはばからないケンチのせいだという話もあります(このサイトの話をしたときが、そもそもどしゃぶりでした)。だけど「ことばの森」の初日もこれまた大雨でどうなることかと思いましたが、翌日からはすっかり晴天でした。ここらへん、まだ「キャンプの神様」伝説は続いてるかも。でも、このごろ実感しているのですが、雨は大事なんです。これから雨の季節になりますが、日本にとって、雨ほどすばらしいものはなくて、この国の文化の半分は、この「雨」がはぐくんだすべてのものによって成り立っているのです。雨がふったら、しみじみと「あ〜〜うれしいなあ」と、「天」との交流を実感するべきなのかも、と、感じます。「もっと降れ」とは思わないですけどね。
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| 2003年5月14日 |
★自分に「責任」をとる★
★先日あるテレビのニュース特集で、「明るくガンとつきあう」というNPOのことをやっていて、末期ガンの方々が、積極的かつ前向きに、しかも明るくおのれのガンとたたかう様子が報道されていた。ガン自体が消えてしまったという方、あと数ヶ月の余命と宣告されたのに、もう十年以上元気に生きておられる方などの話だった。玄米食やびわの葉温灸、ヨーガなど、それぞれが自分にあったガンとのとりくみをしておられるのだが、西洋医学を否定するのではなく、いってみればそれも「共存」しながらの闘病なのだが、みなさんとにかく明るいのがよかった。そこで印象深かったのが、その会を引っ張っているお医者さんの話で、ガンの原因は「自分」なのだということを認めなければならない、ということだった。ガンになったのは、自分のストレスであり、食生活であり、不規則な生活であり、その他もろもろ、とにかく自分が原因なのだ、だから、それを治すのも、医者まかせ、というのではなく、まず自分で「責任をとる」ところから出発しなければならない、という話。……ほんとうにそうなのだ、と思う。自分がこの病気を克服しなければならない、と思わなければ、何もはじまらない。そしてそう思いさえすれば、方法は山ほどあり、それを選択し、実行していくことだけなのだと。ガンととりくむということだけでなく、さまざまなところで普遍性を持っている考え方だと思う。
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| 2003年5月11日 |
★5万ヒット★
昨年末の評論研に呼ばれたとき、わたしがじぶんのことを「マイナー作家としてはうんぬん」という言い方をしたら批評家某氏に「そういう言い方は嫌味だからやめてください」といわれた。「なんで?マイナー作家なんだけど」「マイナーじゃないですよ」「あのねえ…」と、威張って(?)も仕方のないところで、いかにマイナーかということを力説したのだが(笑)某氏がわたしをマイナーでないというひとつの理由に「だってあなたのホームページだって毎日100件もヒットしてるじゃないですか」というのがあった。ホームページに来る人がみんな読者であればわたしがマイナー作家ではない証明になるかもしれないけどね。現実はそうではないでしょう。わたしが日頃出会っているひとは、わたしの作家活動とはほとんど縁のない方々(まあそれはそうだ、児童文学作家と日常的に縁があるのは編集者くらいのものです)なわけで、その方々はたぶん、わたしがここで「こんな本が出ました」といっても、別に買って読んでいるわけではないと思う。(「そんなことありません!買ってます!」という何人かの方の顔が今浮かんだけどね)だけど読者ではないけれど、わたしの「発言」を知りたいとか、聞きたい、というひとたちではあるのだろうと思う。つまり「児童文学を書いているらしい芝田勝茂というひと」の発言を、きいてやろうか、みたいなところなのかな。それは作家としてはさほど嬉しいことではないのだろうけど、わたしという個人にとってはOKだ。日常を含めたたくさんの出会いでわたしを知った方々が、「ふうん、こんなものを書いているんだ」とか、「こんなことを考えているんだ」と思ってここをクリックしてくれればいい。……もちろん読者のためのサイトであることは当然ですが。まあしかし、考えてみればわたしの読者は子どもたちなんだからねえ。そんな子もクリックしてくれてるのかなあ。たしかに時おりメールはいただくけれど。まあ何はともあれ、5万ヒットしました。ありがとう、みなさん。
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| 2003年5月4日 |
★こころの中にうごめくもの★
★「ことば」という言い方ではいろいろ誤解を招くのだなあと思いつつ、いろんな書き方でわたしがここにつづろうとしていることは、意味のないことかもしれない、という気もする。…ああ、「みたいなことかもしれない」「という気もする」とか「ではないでしょうか」とか、とか「…なんだけど」とか、なんとまあ、断言できない情けないいい方なんだろう。…何を書こうとしたんだっけ。ああ。「こころの中」にひそんでいるのは、別に「ことば」という、短い単語ではなくて、いろんな思い(想い)であるわけです。その「想い」を、だれかに向けて発する、ということが「ことば」であるということです……ですよね? じゃああなたはいったいだれにむかってあなたの「想い」を発しようとしているのですか。そしてわたしは? ……真夜中に、とてもとても寒い荒野にひとり残されて歩いているような気がするとき、<わたし>はだれかにむかって、咆えるようにして「ことば」を発する。……するともしかしたらどこかで、<飢えている>あるいは<凍えている>ひとがいて、そのひとに届く、届けばいい、……そしてもしかしたら届くこともある。……あるんだって。ときおり、わたしのもとに、真夜中のむこうから、のようなメールが届く。あるときそれはとてつもなく長い。あるときそれはほんとに過剰な自意識の垣根をくぐりぬけて、やっとこさたどりついたりするものだったりする…わたしは時にそれに返事を書くけれど、その返事はすでにわたしが書いた<ことば>の熱も、飢えも渇きもないものになってしまっている。そしてそれへの返事は二度とかえってこない……。そう、たぶん、そのときだけは、つまり、わたしが「咆えて」そのひとがうけとめた、その瞬間だけはたしかにあったのだ、と思うしかない。
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| 2003年5月1日 |
★「ことば」を信じるひと・信じないひと〜「ことば」と「わたし」の関係〜★
★文章をつづっている人間としてふと思うことですが、世の中には「ことばを信じているひと」と、「ことばを信じていないひと」の二通りがあるのではないか、と。以前にも書いたことがあります。「ことば」はおのれを客観視することができるツールである、と。ところが、その「客観視」できるはずのことばを、まったくそういうふうには使わない、とらえない人と、無意識でもちゃんとそういうことがわかっている人の二通りがある、ということなのではないでしょうか。またしてもこれを「いい・悪い」でとらえてほしくはないのですが、「ことば」とじぶんの関係が「べったり」=じぶんが発することばは何ひとつ自分自身と乖離していない=というのが「ことばを信じる」ひとです。う〜んわたしのこういう「二元論」には限界があるんだろうとは思いますが、……それにそもそもが定義をあいまいにしたままでの文章ですしねえ……でもね。こういうきっかけから考えることをはじめてもいいじゃないですか。わたしのこういう話が嫌いなひとは、だいたいにおいて「ことばを信じている」ひとです。…って、そういうひとはここなんか読まないか。批評、ということにからんで考えたんですけどね。もっと自由になりましょう、というのが究極にわたしのいいたいことでえす。
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